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日米をめぐる家族の物語(第1回)

3歳の時に米国に養子に出されたいとこのテリーさん(右)を30年にわたり探し続けてきた直子さん。昨年2人は対面を果たした。写真は10月に羅府新報社を訪れた時に撮影(写真=マイケル・ヒラノ・カルロス)


30年探し続けたいとこと対面 戦後米国に養子に出されトーレンスに

 「もし私と鉄の運命が逆転していたら―。これからもずっとお父さんとお母さんのことを知らずに生きていくのだなと思った。そう考えたらとても人ごととは思えなかった」。千葉県柏市に住む島村直子さんは、伯父で画家の故・島村洋二郎の息子で、3歳の時に養子として米国にわたったトーレンス在住のいとこ・鉄さん(テリー・ウェーバーさん、以下テリーさん)を30年にわたり探し続けてきた。そして昨年、2人はついに対面を果たし、この出会いがさらなる奇跡をよんだ。日米をめぐる家族の物語を2回に分けてお届けする。【取材=吉田純子、グウェン・ムラナカ】

一冊の本との出会い

 直子さんの伯父で、テリーさんの実父である島村洋二郎は生前、無名の画家だった。1916年に東京・神楽坂に生まれ、旧制府立第四中学校(現都立戸山高校)を卒業。旧制浦和高校(現埼玉大学)を中退後、画家となった。44年に従軍画家として中国にわたるが結核を患い帰国。その後、入退院を繰り返しながら創作活動を続けたが、53年に37歳の若さでこの世を去った。  直子さんが洋二郎のことを調べるきっかけとなったのは1984年、一冊の本との出会いだった。

洋二郎が晩年にテリーさんの母君子さんを描いた作品「忘れられない女(ひと)」(島村直子さん提供)

 その日、直子さんは仕事帰りに立ち寄る松戸の駅ビルの本屋にいつも通り本を買いに行った。目当ての本を見つけ、会計のところに向かおうと平積みになっている本の前を通りかかったその時、左手がある本にふと勝手に延びた。表紙にはオレンジ色の服を着た女の子の絵が描かれていた。手にとって開いてみると、冒頭に「島村洋二郎のこと」と書かれていた。  「あれ、洋おじさんと同じ名前だ―」。読み進めると、断片的ではあるが父と母から聞いていた話が書かれていた。「でも洋おじさんは無名で、本に載るような人とは聞いてなかったのに―」。疑問は残ったが、ひとまず本を購入し帰宅した。  後日、直子さんの父で洋二郎の弟である忠茂さんに電話し話を聞いてみると、本の著者である詩人の故宇佐見英治氏は洋二郎の親友で、晩年、洋二郎の世話をしてくれた人だったという。  直子さんは父・忠茂さんが洋二郎の遺品として持っていた絵を1枚だけ持っていた。しかし本の表紙の絵が洋二郎のものとは認識できなかったという。「今思うと絵に呼ばれたのだと思います。その時は著者の宇佐見さんの名前すら知らなかったのに」  本を読み進めていくうちに、直子さんは洋二郎のことをもっと知りたいと思うようになった。ある時、親戚が集まった際、直子さんは洋二郎のことを尋ねた。すると場の空気が凍りつくのを感じた。「親戚の誰もが洋二郎のことを話したがらないということが分かりました。だったら自分で調べるしかないと決心がついたのです」。洋二郎は家族の反対を押し切って画家になったため、家族との関係はぎくしゃくしていたという。  1986年、直子さんは当時明治大学の教授だった宇佐見氏に手紙を書き、2カ月後、同氏から洋二郎のことを聞く機会に恵まれた。宇佐見氏は旧制一高(現日比谷高校)在学中に洋二郎と知り合い、友人になったという。  宇佐見氏から洋二郎の絵を持っている人の情報を教えてもらい、「絵を探してみなさい」とアドバイスされた。さらに同氏は洋二郎の自画像まで貸してくれたという。

鉄(テリー)を探して

米国の軍人ジョー・ウェーバーさん(後列右)と妻エスタさん(同左)に養子として引きとられたテリーさん(前列右)。同じくウェーバー夫妻に養子として引きとられたアンナさん(テリーさんの妹にあたる)=1953年、日本(テリーさん提供)

 直子さんはその後も洋二郎のことを多くの人に知ってもらおうと遺作展を開催。同時に、1950年6月に生まれた洋二郎の息子で、3歳の時に養子として米国にわたったテリーさんを探し続けてきた。テリーさんは直子さんより20日ほど遅く生まれ、生後間もない頃、2人は座布団の上で一緒に寝ていたこともあったという。  洋二郎には生前3人の子どもがいた。最初の妻・幸(こう)さんとの間に2人、そして再婚した妻・君子(旧姓・田澤)さんとの間に生まれたのがテリーさんだった。  洋二郎は結核で入退院を繰り返し、乳児感染を避けるためテリーさんは東京・中野区にある聖オディリアホーム乳児院に預けられた。洋二郎は51年に一時退院したが、君子さんは洋二郎の元を去っていた。  1953年8月10日、テリーさんは米国人の軍人のジョー・ウェーバーさんとエスタ・ウェーバーさん夫妻に養子として引きとられ、テリー・ユージーン・ウェーバーと名付けられた。当時は進駐軍の兵士が児童養護施設の子どもを養子として迎えるケースが多かったという。  洋二郎の君子さんに対する愛情は深く、その情熱は君子さんをモデルにした絵が物語っているという。「その絵から狂おしいまでの情熱が伝わってくるのです。君子さんと別れた後に苦しみながら描いた絵は他の作品とは作風が異なり、とても印象深い」と直子さんは話す。  一方で会えない息子テリーさんへの思いも作品に投影している。

闘病中の洋二郎が自分の元にはいないテリーさんを想像で描いた作品「月の夜に行きました」(島村直子さん提供)

 「月の夜に行きました」という詩とともに描いた作品は、闘病中の洋二郎が自分の元にはいないテリーさんを想像で描いており、病床で人知れずテリーさんを思い、会えない息子へのいとおしさと父親としての深い愛情に溢れた作品となっている。  「もし私が鉄(テリー)の立場だったら、顔立ちは東洋人で、お父さんがアメリカ人だったら、きっと出生のことを知りたいと思う。だから鉄にせめて『あなたのお父さんは素晴らしい絵描きさんだったんだよ』と伝えてあげたかったのです」と直子さんは語る。  直子さんは1987年から本格的にテリーさんを探し始めた。乳児院や杉並にある児童相談所、アメリカ大使館のほか、養父母であるウェーバー夫妻がオタワ大学を卒業していると知ると、画集を添えて手紙を出した。しかし努力も虚しく「1年後にはウェーバー夫妻はもう亡くなっているのであなたのお役には立てませんと大学から手紙が届いたのです」

「DNAの仕業ね」

 万策尽き果てた2015年、洋二郎の生涯を描いた映画が制作され、上映会を開催した。その会場で直子さんはギャラリートークを行った。「その時に鉄(テリーさん)の行方を探してきたがどうしても見つからない、どうしたら見つけられるか会場の方々に聞いてみたのです。すると『ファミリーヒストリーしかない』と言われたのです」  ファミリーヒストリーとは、著名人の家族の歴史を本人に代わって取材し、「アイデンティティー」や「家族の絆」を見つめるNHKの番組。直子さんは早速番組に手紙を書いた。すると、通常は著名人が取り上げられるのだが、直子さんは視聴者版で取り上げられることになった。  自分ではどうしても探しきれなかったが、番組はテリーさんを見つけだし、さらにテリーさんがトーレンスに住んでいることが判明した。直子さんが住んでいる柏市はトーレンス市と姉妹都市提携を結んでおり、なんとも不思議な縁を感じたという。  テリーさんは高校卒業後に海軍に入隊し、ベトナム戦争に従軍。退役後は部品メーカーのエンジニアとして働いた。現在は引退し、日系人の妻シャロンさんとともにトーレンスで暮らしている。二世週祭にも退役軍人としてパレードに参加。長女のローレンさんは2010年の二世週祭のコートを務めた。さらに長男のマークさんとローレンさんは姉妹都市プログラムの一環で高校時代に柏市に交換留学生として訪れていた。  VTRには2人の子ども、そして初孫にも恵まれ幸せに暮らしているテリーさんの姿が収められていた。

テリーさんが描いた自画像

 「家族に囲まれ、生まれたばかりの孫を可愛がっているテリーの様子が写し出されていました。幸せに暮らしていて本当によかったと思えた瞬間でした」  さらに驚くことに、テリーさんは小さい頃から絵が得意だったのだ。画家だった実父のことを知り、家族は「DNAの仕業ね」と口を揃えたという。  直子さんはテリーさんを探し始めた時からずっと、宇佐見氏からもらった洋二郎の自画像を玄関の電話台の前に飾っていたという。「飾るって大事なことだと思います。飾ると毎日目にする。前を通る度に洋二郎の絵と目が合うのです。そのおかげで鉄(テリーさん)とも会えたのかなと思っています」  今回、テリーさんはいとこである直子さんと会うことができた。しかしこの出会いがさらなる家族の奇跡を呼ぶ。(第2回に続く)

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