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全人類の宝、比嘉太郎を語り継ぐ:沖縄の戦後復興を支援した帰米2世

比嘉太郎のポートレートが入った講演会のポスターを広げる実行委員。左から比嘉朝儀さん、上原民子実行委員長。右端が比嘉太郎の長男ノーラン・比嘉さん

 戦後間もない沖縄の復興を支援し、ハワイから550頭の豚を送った実話を描いた「海から豚がやってきた」の著者でノンフィクション作家の下嶋哲郎さんが、沖縄系帰米2世、比嘉太郎の人物像を語り継ぐ講演会「ウマンチュ(全人類)の宝―比嘉太郎の人間愛とガジュマルの樹」のために来米する。講演会(7月1日、ガーデナ)の実行委員会は、比嘉太郎の人間愛・博愛主義の伝承に意欲を示し、講演を通し米国と沖縄の絆をいっそう強める。【永田 潤】

 比嘉太郎は「海から豚―」の主人公で、豚のほか食料や衣料、医薬品など救援物資を送る救援活動を、出身地ハワイの沖縄系コミュニティーを起点に、同士に呼びかけ、支援の輪を全米そして中南米諸国に広げた中心人物だ。幼少時代を過ごした沖縄で身に付いた「ウチナー精神」が、その後の人格形成に与えた影響は大きく、戦後の沖縄救援運動のパワーの源だったに違いない。

会議で意見を交える講演会の実行委員

 日系人で組織した米陸軍第442連隊に属した比嘉は、欧州の最前線で重傷を負って除隊した。だが、その後あえて再志願して沖縄戦に加わったのは、第2の故郷沖縄を救うためであった。  当時の沖縄では、米軍に捕まれば殺されるという風評が立ち、それを信じ込み自決する住民も少なくなかった。自然壕(ガマ)に逃げ込んだ住民に、武器を持たずに投降を呼びかけた通訳兵の比嘉は、英語、日本語、ウチナー語(沖縄語)の3カ国語を駆使し、日本語の分からない人々には、ウチナー語で優しく語りかけ信頼を得て多くの人命を救った。その中には、比嘉の小学校時代の恩師も含まれていたという。  講演会は、サンゲーブリエルに住むウチナー親善大使で講演会実行委員長の上原民子さんが企画し、北米沖縄県人会や同志の協力を得て、開催の運びとなった。上原さんは「海から豚―」を原作にしたミュージカルを2004年にハワイで催し好評を博したことから、翌05年に追加公演としてトーレンスで昼夜2回にわたり開いた。  同じくウチナー親善大使で、沖縄県人会顧問の比嘉朝儀さんも同講演会の実行委の1人である。比嘉さんは、比嘉太郎が幼少期に暮らした中城村出身といい「講演を通し、沖縄の精神文化の中枢である『チムグクル(肝心)』、相手の立場になって物事を考える温かい心、戦争の恐ろしさ、命の尊さ、平和の大切さを学んでほしい。それを後世へ伝え、風化させてはいけない」と力説し、参加を促している。  下嶋さんは、比嘉太郎に関する執筆・講演活動など、20年前からプロジェクトを進めている。今回の講演会については「戦争や差別が続く今だからこそ、沖縄の救済運動から、比嘉太郎の精神が生かされる。比嘉太郎の業績とウチナー精神と(ウマンチューの宝)を学び、現代の社会に役立ててほしい」と願う。

ガーデナで講演 琉球伝統芸能の余興も  講演会は7月1日(日)午後2時から5時まで、ガーデナのケン・ナカオカ・センター(1670 W. 162nd St.)で開かれる。下嶋さんは日本語で話し、英語の通訳がつく。講演の合間にエンターテインメントとして、琉球祭國太鼓や琉球民謡などが披露される。さらに南米諸国の日系人に人気のミュージシャンで、アルゼンチン出身の沖縄系3世グース外間もゲスト出演する。司会は、沖縄出身の母を持ち、沖縄を舞台にした映画「カラテ・キッド2」に出演した女優タムリン・トミタさんが務める。  入場料は、寄付の10ドル。詳細は上原さんまで、電話213・680・2499。メール― tamiko.uyehara102239@gmail.com

下嶋哲朗さんが呼びかけ 尋ね人と沖縄関連の資料提供を  太平洋戦争の時です。史上最悪の、と評される地上戦が戦われた島、沖縄の人々は泥にまみれ炎に焼かれて、絶望のどん底に沈みました。苦しみは戦後も長く続きました。そんな沖縄を救え、と立ち上がった人々がいました。みなさんやみなさんのご両親祖父母、すなわち一世、二世たちです。

訪米し沖縄の古い資料を調べる下嶋さん

 ことの始まりはこうです。まずハワイに、「沖縄を救え」との一粒の種子を蒔いた若き二世がいました。沖縄救済運動や市民権獲得運動など、社会のために尽くしたことで知られる比嘉太郎です。このたった一粒の種子はハワイあげての大運動に広がったばかりではなく、あたかも鳳仙花の実のはじけるがごとく、世界のウチナーンチュ社会という豊かな土に拡散したのでした。各地に根を下ろした種子は、ウチナー対ヤマトという歴史的確執を超え、さらに人種を超え、宗教を超え、国境を超えて、沖縄救済運動へと大発展したのです。たった一粒の種子だったのに、それがなんと、世界的なといえるほどの人間の輪に、大きく花咲いたのでした。  それにしてもこの偉業にいまもなお、深い感動を覚えるのは一体どうしたことでしょう。思うに沖縄救済運動における壁を超えた人と人とのつながり、この平和の輪の輝きは、対立し、排除し、差別し、憎しみに満ちた今だからこそ、いっそう輝きを放つのでしょう。  かくいう私は沖縄救済運動の一つ、忘れられていたけれど今では知られる、米国から沖縄への豚輸送「海から豚がやってきた」の発掘者ということになっているのです。豚の調査の時、つくづく感じ入ったことはほかでもありません、救済運動の現代的な意義でした。この意義ゆえに私はこの運動についての研究を続けました。広く大きく人と人とが手をつないだこの運動の意義は、現在にそして未来へと伝承されていかねばならないはずです。なぜなら伝承とは、いつかふたたび花を咲かせる種子だからです。果たして今こそは「その時」ではないでしょうか。  私は関係者を探してインタビューし、資料を発掘してきました。とはいえバックアップのない個人の仕事ですから、ことに米本土そして中南米におけるそれは、思うようにならず焦るばかりです。でも時間は刻々と過ぎ去ります。たちまち20年が過去になったのでした。その間に関係者は静かに去り、資料は散逸してゆくのですが、それを私は口惜しい思いで見守るのでした。

7月1日に比嘉太郎の講演会を開く実行委員長の上原さん(左)と下嶋さん

 今回、そんな私に絶好の機会が訪れました。7月1日、ガーデナにおいて、比嘉太郎の偉業を語ることになったのです。このことに賛同してくださった、羅府新報のご厚意によって、こうして広くみなさまに「尋ね人」そして「資料発掘」を呼びかける機会が与えられたのでした。  読者のみなさん、私たちは祖先が蒔いた一粒の種子の子どもです。祖先の偉業を発掘し、今にそして後世に伝承するべく、尋ね人、資料の発見に、どうかご協力をお願いします。それはもしかするとあなたに近しい人かもしれず、資料はあなたの倉庫に眠っているかもしれないのです。  尋ね人は「北米沖縄県人史」そして比嘉太郎の本「ある二世の轍」などから分かる人名は以下です。(敬称略)  幸地新政(在米沖縄救援連盟会長)、仲村信義、屋嘉比三良(副会長)、吉里弘、仲栄直盛仁、兼次忠七郎、吉本成喜、屋部エミ(書記長)、平良トーコ、島松吉、比嘉隆、宮良長助(会計)、そして名前を記されなかった多くの関係者。  資料によると、中南米に立ち上がった数多くの救済運動、そして沖縄との間に、報告書や手紙などが、ひんぱんに交換されていたようです。彼の地における運動を知る上で、そうした資料をも探しています。  羅府新報気付でどんなささいな情報でも、また資料でもお寄せくださいますように。どうぞよろしく願いいたします。  下嶋哲郎

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