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上原民子さん

旅行業を天職とし、謳歌する上原民子さん

 「きれいな沖縄しか知らない」と語るのは、長崎で生まれ、疎開先の熊本で終戦を迎えたから。小3から20歳まで育った沖縄が、人格を形成した礎だ。

 子どもの頃から夢見た海外は、まずハワイへ。日系2世との結婚で「私が最後のピクチャー・ブライドだった」。仕事と家庭を両立させたが「子育てで自分を犠牲にしたくない」と心を決めるやいなや、3人の娘(9、11、12歳)を残し「ある日突然、蒸発した」(上原さん)。35歳の時だった。

1939年、長崎県生まれ。孫4人、ひ孫4人。趣味はアクション映画鑑賞。敬けんなキリスト教徒

 移住先に米本土3都市を見て回ったが「住んで仕事をするには、年をとり過ぎている」と断念。ロサンゼルスを選んだ決め手は、日系人と沖縄系が多く、古き良き日本が残っていたためで「絶対、再スタートできる」と確信を持った。  小東京の沖縄系旅行社に10年勤め独立。旅行業は「お客さんは、いい思い出と喜びだけを持って、楽しんで帰ってくれる。たくさんお金を使ってもらって、こっちが感謝したいのに」、逆に「『民子さん、ありがとうねー』って言ってもらえる。幸せそうな顔を見るとやめられない」と、天職を謳歌する。  開業30周年を迎え「日系人のみなさんに助けられている」と深謝し、特に経営が厳しい時にある会社社長に助けられ「生涯忘れることない」と恩に着る。観光を軸に、ビジネス、学術、文化、芸能など、さまざまな顧客を抱える。  県知事から任ぜられた民間大使の文化交流活動は「沖縄への恩返し」と強調し、沖縄関連の芸能公演や文化・写真展などを私費を投じてまで継続するのは、不幸な沖縄戦を踏まえ「日本とアメリカが、ずっと仲良しでいてほしいから」と平和を祈願。同様の思いを込め橋渡しした、故郷糸満とレドンドビーチの友好都市提携の影の立役者でもある。  自身の人生を旅に例え「いろんなことに挑戦して、台風や嵐に見舞われ、荒波に揉まれながら、乗り越えてきた」と振り返る。今は「やっと静かな波に乗れた」と、安堵の表情を浮かべる。  世界に移住した沖縄人の帰郷を祝う5年に1度の祭典「ウチナーンチュ大会」に毎回添乗し、ハワイ、北米、南米諸国から毎回平均400人の顧客を世話する。昨年の大会は「これが最後よ」と、周囲に伝え引退覚悟で臨んだ。だが「500人のお客さんからは『ノーコンプレイン』だったので、また喜ばせたくなった」といい、あっさりと引退を撤回。切に願う「平穏無事」はまだ先のようで、荒波にこぎ出す旅が再び始まった。

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