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ビジネスワイド:創作和食で米国人を魅了【上】

ロサンゼルスを中心に7店舗のレストランを経営する「KATSU-YAグループ」取締役会長の上地氏

ロサンゼルスを中心に7店舗のレストランを経営する「KATSU-YAグループ」取締役会長の上地氏

「KATSU-YAグループ」取締役会長 上地勝也さん

 行き場のない気持ちを覆い隠すがごとく、静かにまぶたをとじ思いを馳せた。「いつかこの店が客でいっぱいになりますように」。その数カ月後から18年後の現在に至るまで、その店に客が途絶えることはない。日本料理店「極」をはじめ、寿司や居酒屋などロサンゼルスを中心に7店舗のレストランを経営する「KATSU-YAグループ」取締役会長の上地勝也氏。独創性の高い創作和食で多くの米国人を魅了する同氏が、沖縄から海を渡り米国で才覚を発揮するまでの話を2回に分けてお届けする。【取材=吉田純子】

「いつか社長になりたい」 突如舞い込んだ米国行き

 米国に渡る前、まだ日本にいた頃の上地氏(KATSU-YAグループ提供)

米国に渡る前、まだ日本にいた頃の上地氏(KATSU-YAグループ提供)

 1959年、沖縄県宮古島で生まれ、那覇で育った。子どもの頃から物を作るのは好きだったが、シェフになりたいと思ったことはなかったという。ただいつも心の中にあったのは「いつか社長になりたい」という思い。  18歳の時に大阪の辻調理師専門学校に入学し、沖縄を離れた。「妹2人、弟1人の長男。母はトラブルメーカーの長男がいなくなってホッとしたのではないでしょうか」と当時を振り返る。  調理師学校では日本食、フレンチ、中華すべてを学んだ。将来は外国に行きたいとの思いがあり、日本食を極めた。  海外への憧れは子どもの頃から。米軍基地がある沖縄で生まれ育った同氏にとって、米国は一番近い存在。軍施設のカーニバルや米国人の家に招待されると、米国の豊かさを肌で感じた。  「普段は日本食や沖縄の郷土料理を食べていましたが、米国人の家庭に行くとフライドチキンやフレンチフライ、ホットドッグがあるのです。子どもにはそれがごちそうに見えました」。食べ物や生活様式だけでなく、当時、アメリカ車は日本車よりずっと高級で、少年にはすべてが別世界に映った。  卒業後は沖縄に戻り、個人経営の日本食レストランや寿司店、ホテルなどで修業した。  そんなある日、ホテルに勤めていた時、カウンターで寿司を握る上地氏の前に一人の客が座った。客はアメリカでレストランを開店予定だという。思い切ってその客に尋ねてみた。「お話を聞かせていただいてもいいですか」  「ちょうど先方も人材を探しており、思いがけず話はすぐにまとまったのです。若さゆえ、物事を深く考えず、『行きたい』という憧れだけが強かったように思います」。目の前に突如舞い込んできたチャンスをつかみ、84年、いよいよ故郷沖縄を離れ、米国へと向った。

自らの店をオープン ある日を境に客押し寄せる

 渡米後、日本食レストランで働き始めた頃の上地氏(KATSU-YAグループ提供)

渡米後、日本食レストランで働き始めた頃の上地氏(KATSU-YAグループ提供)

 店はロサンゼルス郊外のウエストレイクにあった。当時は、ただ目の前の仕事をこなす日々。現在のように創作料理をあみ出すことはなかったという。その店は1年ほどで閉店。次はサウザンオークスにある別の店で5年ほど働いた。  ちょうどその頃、アメリカが嫌になり、一度日本に帰ったことがあった。「郊外だったので、有色人種に対して常に排他的な印象を受けたのです」  日本に戻り、3年ほどレストランなどで働いた後、再び米国に戻る決心をする。89年にシアトルの日本食レストランで1年ほど働き、その後、90年にノースリッジにある日本食レストランに移った。  自らの店「KATSU-YA」1号店がスタジオシティーにオープンしたのは97年。あるものすべてを投げうち始めた店だった。開店時、手元に残ったのはわずか800ドル。傍らには妻と2人の子どもたち。家族を養う責任が重く肩にのしかかる。全財産800ドルをキャッシャーの中に入れ、いよいよ店をスタートさせた。  しかし、いざ開店しても肝心の客が来ない。仕入れを終え、魚の下準備をし、店内の掃除も済ませ、やるべきことはすべてした。「さてどうしよう」。開店時間を過ぎても一向に客が来ないのだ。  「客が来たら電話してくれ」。妻にそう言い残し、当時買ったばかりの携帯電話を持って、店の裏手にある丘に登った。  眺めのいい丘の上にひとり座り、目を閉じ、店が客で溢れかえる様子を思い浮かべた。「いつかこの店が客でいっぱいになりますように」。念じるがごとく馳せた思いはいつしか現実となり、目の前に現れることになる。  ある日の晩、店に急に客が押し寄せてきたのだ。評判がじわりじわりと広がり、うわさを聞いた客が一気にやって来た。その日を境に客足が途絶えることはなくなった。開店から半年が経ったある日のことだった。

沖縄から母が訪米 息子の成功目に焼き付ける

 幾多の困難が襲いかかろうとも苦労と思ったことはない。「自転車操業ながら、それでもどうにかこうにか店は回っていました。本当に苦労した人と比べたら何でもありません。僕が本当に苦労したと思う人、それは母です」  十数年前に他界した同氏の母は生涯を沖縄で過ごした。食堂を経営していた母が作る料理を見て上地氏は育った。母の料理が原点だ。  開店して5年、店が急成長を遂げた頃、初めて母を米国によび自分の店に招待した。アメリカで一国一城を築き、客で溢れかえる店の寿司カウンターに立つ息子の姿を母は初めて目にする。  しかし、息子が作る料理を食べると口を開いた。「ちょっとぐらい入ったからってうぬぼれるんじゃないよ」  「若い頃はやんちゃで、迷惑ばかりかけていた馬鹿息子ですから。喜んでいるでしょうけど、何も言わなかったです」  息子の成功を目にし、さぞかし嬉しかっただろう。本当は飛び跳ね泣いて喜びたかったのかもしれない。しかしあえて喝を入れた。母の最大級の愛情表現だった。  「母はこれくらいのことしか言わないのです」。上地氏は照れくさそうに笑いながら当時の母の面影を思い起こす。  「わかったよ」。息子はそう返すと母の言葉を胸に刻んだ。  「期待を裏切ってばかりいました。いつも怒られてばかり。泣かせてばかりいたのです。でもうるささの中にもとても温かみのある母でした」  同氏の母は亡くなる2年前に2度目の訪米を果たし、米国で成功した息子の姿をその目に焼き付け、沖縄へと戻っていった。【後編に続く】

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