top of page

【シリーズ2】南加庭園業連盟:日系団体として唯一「敬老」売却に反対

収容された庭園業者らによってマンザナー強制収容所内に造られた日本庭園(写真=南加庭園業連盟提供)

収容された庭園業者らによってマンザナー強制収容所内に造られた日本庭園(写真=南加庭園業連盟提供)


(2)南加庭園業連盟の沿革 〜人種差別・世代間の葛藤〜

 長い歴史をもつ南加庭園業連盟。数多くある日系社会の団体が全て沈黙を守る中、連盟は唯一「敬老」売却反対活動に参加した団体であった。連盟の歴史を振り返ることで、今回の反対活動と連盟創設当時の背景に何らかの共通点が見えてくる。【中西奈緒】

戦前に撮影された庭園業者(写真=南加庭園業連盟提供)

戦前に撮影された庭園業者(写真=南加庭園業連盟提供)

 南加庭園業連盟は、戦前、戦中、戦後の日系人、そして、戦後移住者(新1世)たちの歴史の生き証人ともいえる職業団体で、かつて最大8000人の規模を誇ったという。

 なぜ1世やその子孫の2世、戦後移住者の多くが庭園業に従事したのか。それは、人種的な差別がまだ残る戦後間もない時期とも重なり、大学などでの高等教育を受けていても他の仕事につくことが容易ではなかったこと、肉体労働ゆえに専門性があまり問われない一方、需要が高く報酬も良かったことなどもその背景にある。

戦後に移住した庭園業者。旦那の仕事を手伝う女性も多かった。(写真=南加庭園業連盟提供)

戦後に移住した庭園業者。旦那の仕事を手伝う女性も多かった。(写真=南加庭園業連盟提供)

 ここでいう戦後移住者は、1953年に「難民救済法」の特別適用によって入国した洪水や台風などの自然災害の犠牲者たちで、戦後初の日本からの「移民」とみなされている。

 その後、1965年の移民法改正で3親等まで呼び寄せ可能となりその数は増えた。戦後移住者にはその他に、国際結婚や学術者および技術者の特殊移住者層などもいて、次第に戦後移住者が中心となるコミュニティー組織・団体も増え、県人会や日本語学校、文化芸能関連の組織・団体などを中心に日系社会の活動が盛んになった。

 連盟は戦前から評判の高かった日本人の勤勉さなどの上に、戦後移住者たちの努力が実を結び、徐々にアメリカ市民そしてアメリカ社会からもさらに絶対なる信頼を勝ち得るようになっていった。この1953年から1960年代半ばに庭園業に携わる日系人の数が戦後最大規模となり、戦前の農業と同様に日系社会を支える職業となって、その発展を支えた。

◎「マロニー法案との闘い」と「内輪の世代間対立」

 しかし、その歴史は闘いの歴史でもあった。戦前の1933年に現在の連盟の前身である「南加庭園業組合連盟」が1世によって創設されたが戦争で解体。戦時収容所から出た後しばらくは、各地方の組合がそれぞれ独自に活動していた。その後、それぞれの組合が結束することとなる事件が起きる。

 戦後の人種的な排斥がまだ残っていた1955年、「マロニー法案」という「英語での専門試験を受けライセンスを取得しなければ庭園業者として働けない」という庭園業を専門化させ公衆・公益を守ろうという法案が提出されたのだ。この時期はすでに庭園業の多くを日系人が占めていたことから「人種差別的な法律」と受け止められた。これは、英語の読み書きが得意でない1世たちにとっては死活問題で、連盟は廃案に追い込むために真っ向から闘うこととなる。この法案と闘うために、同年、各組合が団結して創立されたのが現在の「南加庭園業連盟」である。つまり、連盟は差別的な法案に対抗するためにつくられた組織であるともいえる。

 一方で、この闘いの過程で連盟内部を二分する世代間の対立も生まれた。連盟の1世と帰米2世が法案に反対する一方で、若い2世は賛成したからだ。この世代間の対立は日系社会で大きな話題となり、1955年7月の羅府新報は「マロニー法案を巡り世代間の対立を危惧するガーデナー協議会」という見だしで記事を掲載している。その後、1世の強いリーダーシップのもと、法案に対する反対運動が展開される。最終的に公聴会や州議会暫定委員会などが開催された結果、この法案を廃案に追い込むことに成功。その後もユニオン加入問題などで再度危機にさらされたが、連盟に顧問弁護士を置くことで会員を守るなど、会員の結束はより強まっていった。

マロニー法案に反対する15組合の代表が集まり、1955年に発足した南加庭園業連盟(写真=南加庭園業連盟提供)

マロニー法案に反対する15組合の代表が集まり、1955年に発足した南加庭園業連盟(写真=南加庭園業連盟提供)

◎日系社会の発展に貢献 ~「敬老」で30年ボランティア~

 このように、多くの日系人と戦後移住者たちが庭園業に従事していたことから、連盟の日系社会での存在は大きく、その発展に貢献した。1965年の移民法改正後に戦後移住者は増え、いま現在でも続く県人会など多くの組織・団体を通じて日系社会の活性化が起こり、連盟メンバーの多くもそういった組織・団体で重要な位置を占めるようになる。

会員たちは30年にわたり献身的に敬老でのボランティアに励んだ(写真=南加庭園業連盟提供)

会員たちは30年にわたり献身的に敬老でのボランティアに励んだ(写真=南加庭園業連盟提供)

 連盟はボランティア活動にも積極的に取り組んだ。日米文化会館の清流園の建設、小東京タワーズの造園活動。南加日系商工会議所の恒例歳末助け合い運動で募金集めに参加するなどはその具体例である。

 ここで特筆すべきは30年以上、年に6回にわたりリンカーンハイツにある「敬老看護ホーム」で庭園の手入れをしてきたことだ。リタイアした先輩の多くが「敬老」にお世話になっていることへの感謝の思い、自分自身もいつかお世話になる場所だという思いからメンバーたちは献身的にボランティアを続けてきた。

◎時代の変遷と危機感の高まり ~「敬老」が事件の舞台に~

 しかし、時代の流れは厳しい現実を連盟に突きつける。かつて最大8000人いたという会員数はいまや約800人(18組合)。そのうち473人が75歳以上で平均年齢は77歳になる。現在、庭園業者として現役で働いているのはおよそ500人で、毎年減少しつつある。また、90年代以降、連盟は英語を中心に話す日系人から、日本語を中心に話す戦後移住者の組織に移行し、現在は「80パーセント以上が高齢者層の戦後移住者」になっている。

 連盟顧問の小山信吉さん(81)によると、現時点では南カリフォルニアの人口が増え、新家屋の建設が増えるのに伴って庭園業者の仕事の需要も増えつつあるという。しかし、いまや庭園業者を目指す日系人や日本人は少なくなり、日本から若い人を呼び寄せたくとも労働ビザは下りない。結果的に、日系人や日本人ではなく、他の東洋系(例えば、中国系でも韓国系)でもなく、中南米系の人たちが仕事を担うようになっているのが今の実情だという。

 戦後多くの苦難を経て「庭園業者といえば日系人や日本人」といわれるまでの地位を確立してきたが、十分な後継者を育成することもできず、従事している日系人、日本人の高齢化も著しくなっており、彼らの老後の保障もままならない。こうした中に降って湧いたのが、長年献身的にボランティアをし、将来お世話になるはずだった「敬老」の売却問題である。(つづく)

「敬老看護ホーム」で庭園の手入れを終えて記念写真。前列右から4人目が当時会長だった小山信吉さん。2007年頃撮影。(写真=南加庭園業連盟提供)

「敬老看護ホーム」で庭園の手入れを終えて記念写真。前列右から4人目が当時会長だった小山信吉さん。2007年頃撮影。(写真=南加庭園業連盟提供)


1 view0 comments
bottom of page